武術と書道

 学校の漢字教育で

とめ・はね・はらいで

減点するしないの話があるが、


そもそもなぜ、

とめ・はね・はらうのか、

が理解されず

字形の仕上がりだけを

見ているからおかしなことになる。


一呼吸につき一画づつ

書いていった場合、

吸う息は肺を膨らませるの

で大胸筋と肘が連動し、

つられて横画は右肩上がりになり、

吸いきって吐いたときに「とめ」が出来る。


「肩で息をする」という

慣用句があるように、

呼吸のエアポンプで

文字を書いた場合、

意図しなくても

とめ・はね・はらいは発生する。


どんなに外形が綺麗でも

呼吸と関係なく

人工的につけられた

とめ・はね・はらいは

修飾記号的なものでしかない。


書が道につながるのは呼吸と

画が対応することで、

字を見ることでその人が

わかる作品になるということ。


これは上手い下手とは関係がない。


太極拳も同じで、

型は「立体化した心電図グラフ」

のようなものだ。

だから健康のパロメータになる。

そこで厳密にロボットのような

採点競技的な完全性を

求めるのは不毛で


「今日は右にズレたけど、

これは心身のどこに不調が

あったのだろう?」

という卦を見る易、導引だ。


自分でも知覚できないほどの

微かな違和感、不調を、

鍛錬によって

「完璧にしてしまう」


のは健康診断の前に

降圧剤を飲むとか、

自分に良い結果が出るまで

タロットを引き続けるようなもので、

これもあまり意味がない。


太極とは

「不完全性を含むこと

で完全となるもの」で一極ではない。


前世という概念自体に

ハマると現実逃避にしかならないが、

なぜ前世という概念があるのか、


つまり

「あらゆる後天的学習を

取り除いた状態の自我は

なんだったのか」



「なぜ私は誰にも教わらずに

こんなことを知っているのか」

を考える事は重要。


そもそも武術自体、

命のやり取りだが、

勝ってもいつかは寿命で

死ぬし倒さなくても相手

もいつか寿命で死ぬ。


じゃあなんで戦うのか、

という問いは何故死ぬのに

生きるのか、という話になってくる。



そうすると死ぬからこそ生きるとか、

無価値なことにこそ価値があるとか、

弱いから強いとか、

真逆の話が同時に存在するようになる。



太極拳が仙人の道とされたのも

字義どおりの不老不死ではなく

毎秒刹那を老いた知覚なく生きて、

いきなり死ねば、

本人の観念的には不老不死といえる。


このとき瞬間と永遠は

同一で、

老荘の胡蝶の夢や

邯鄲の夢枕の話にも通じる。


アウグスティヌスが

聖人に至るには

無頼放蕩の経験があった方が

よいと言ったのも、


博打、酒といったリスクしかない

虚構を身を持ち崩すまで

のめり込めるというのは

信心と本質が同じだからだろう。


聖と俗もまた極まると逆転、同一化する。


竹林の七賢人にも商人がいた。

彼 は他の賢人から音楽や

哲学でなく商売なんて俗な…


と思われていたが、

彼にとって商売は

モノポリーのようなゲームで

あって金自体には

執着してなかった。


そして案外成功者と

言われるようなひとは

このタイプが多い。


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