青空を見つめる瞑想 チベット密教で大事ですが 誰でも続けると 心が清明になります
私はかつて、こうあるべき、が強かったですが、それが蜂起されると非常に楽になり、めいもうからも覚めてきました。
偽の私こそ真の私という錯覚、迷妄、マーヤへ
のとらわれは人類全体としてかなり強く、そこから覚めるのは
一筋縄ではいかないですが、本質、根源からの現れということに気付き出している人達も一定数存在するのは心強いです。
「雲(感情や思考)との同化」から本来の自分(青空)の状態へと戻る感覚を定着させるには、「行き戻り」のプロセスを根気強く繰り返すことが不可欠です。
具体的なポイントは以下の通りです。
「行き戻り」を繰り返す: 私たちはあまりにも長い間、雲と同化して生きてきたため、一度青空の事実に気づいても、すぐにまた雲に飲み込まれてしまいます。しかし、「雲と同化している」と気づいては「青空」へ戻る、というプロセスを何度も繰り返すうちに、その感覚は少しずつ定着していきます。
気づきを「確信」へと深める
最初は小さな気づきに過ぎなくても、繰り返し立ち返ることで、それが徐々に腑に落ちていき、最終的には揺るぎない「確信」へと変わっていきます。
「何もしないこと」の価値を理解する: 私たちのエゴやマインドは「何か特別なことをすること」に価値を置き、「ただ気づいているだけ」の状態を無価値だと判断しがちです。このマインドの抵抗に惑わされず、「ただ青空としてある」という自然な状態を大切にすることが定着への鍵となります。
「忘れてはいけない」という力みを捨てる
「青空であることを忘れてはダメだ」と強く思いすぎることも、実はエゴの罠です。無理に雲を取り払おうとするのではなく、雲と同化したら気づく、という自然なリズムに任せることが大切です。
実際の青空を見つめる
具体的な実践として、実際の青空をじっと見つめる瞑想が非常に有効です。これはチベットの修行や先住民の知恵にもある本質的な手法であり、誰でも取り組みやすく、青空の感覚を思い出す助けになります。
このように、特別な自分に「変身」しようとするのではなく、日常の中で
「本来の自分(青空)に立ち返る」という練習を積み重ねることが、定着への最も確実な道となります。
「創造主すら超えたもの」という方向は、アドヴァイタの文脈では
ニルグナ・ブラフマン(属性なきブラフマン)に対応します。
サグナ・ブラフマン(属性あり、人格神)は
究極の実在に向かう入り口として機能するものであって、それ自体が究極ではない、という理解です。
ラマナ・マハルシが「創造者は誰か」という問いに対して
「まず創造者を創造した者を問え、そしてその問いを持つ『私』を問え」という方向に返したのも、同じ感覚だと思います。
「創造主すら超えたもの」は、インド哲学だとブラフマンに近いと思います。
ブラフマー
人格神としての創造主。形ある神様
ブラフマン
形も属性もない、宇宙の根本原理。存在そのもの
ウパニシャッドでは「ネット・ネティ=これでもない、あれでもない」と表現されます。創造・維持・破壊すら、ブラフマンという海に立つ波みたいなもの。トリムールティ3神も、ブラフマンの働きの別名にすぎない、という見方です。
アドヴァイタ・ヴェーダーンタだとさらに進んで「本当は個人の魂アートマン=ブラフマン」ってなる。つまり最高のものは外に拝む対象じゃなくて、自分と世界の根底にあるもの。
フーマンが「境地を超えている」と言うとき、それは状態ではなく、状態が現れる場所そのものへの気づきを指していると思います。
ラマナ・マハルシで言えば
「私は誰か」の問いが指すもの。
ハーディングで言えば「頭がない」という直接の見。
アドヴァイタで言えばサクシ(純粋な証人)を超えたチット(純粋意識)そのもの。
これらはすべて、状態が来ても去っても変わらないものを指している。
境地は波です。
悟りが指すのは、波が起きている水そのもの、あるいはさらに言えば水が映っている鏡かもしれない。
人間には本能的に、
闘争本能
支配欲
恐怖
生存への執着
怒り
攻撃衝動
があります。
武術や格闘技は、それを単純に否定するのではなく、
見つめ
制御し
洗練し
昇華する
方向に持っていく可能性を持っています。
これはフロイト的に言えば「昇華」であり、
東洋的に言えば「気の錬磨」「丹田化」「心身統一」に近い。
だから古い武術では、
礼
呼吸
型
立禅
座禅
丹田
無心
などが重視された。
単なる戦闘技術なら、
そこまで精神性は必要ないからです。
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